かつての栄華の象徴!揚州・痩西湖は湖ではなく巨大庭園だ!
南京の東に中国全土に酢の産地として知られる鎮江という街があるが、その鎮江の北、長江の対岸に揚州(yáng zhōu:ヤンジョウ)という街がある。人口は453.1万人で、日本で言えば福岡県の人口より少なく、静岡県よりも多いことになるが(全国9〜10位の間)、そこは総人口13億の国。その人口は江蘇省の中でも下から数えた方が早い。参考までに、江蘇省の市の人口ランキングを作成してみた(2018年度調べ)。
- 蘇州 1072.17万人
- 徐州 880.2万人
- 南京 843.62万人
- 塩城 824.7万人
- 南通 731万人
- 無錫 657.45万人
- 宿遷 492.59万人
- 淮安 492.5万人
- 常州 472.9万人
- 揚州 453.1万人
- 連雲港 451.84万人
- 鎮江 317.6万人
揚州の人口の少なさよりも塩城や宿遷といった蘇北の人口の多さに驚いた(どうりで蘇北出身者が蘇州や無錫でよく見かけるはずだ)。ちなみに中国最大の都市である上海の人口はなんと2424万人!東京の人口が1300万人くらいだから倍弱はいることになる。恐ろしや…。
話を揚州に戻す。現在の揚州の街中を歩いていても、ひなびた地方都市といった感じで、特に歴史を感じることもない。しかしながら、今の光景からは想像すらもできないが、以前は世界に名だたる大都市であったのだ。
中学漢文の教科書の定番、李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」で「煙花三月揚州に下る」という一説がある通り、揚州はこの頃から知られた都会だった(孟浩然は地方官僚として揚州に赴任したと思っていたのだが、百度百科には「开元十七年(729年),孟浩然离开长安,辗转于襄阳、洛阳,夏季游吴越,与曹三御史泛舟太湖」とあるから、単に旅行に行ってたらしい)。
実際、国際港として栄え、イスラム商人やペルシャ商人が多数住んでいたようだ(760年に安史の乱に参与した田神功が略奪のため揚州大虐殺を起こし、数千人の外国人商人を殺したとされる)。
元代には「東方見聞録」を書いたマルコポーロがこの地で徴税士として働き、さらに明代になると塩の売買を営む豪商が数多く誕生し、中国きっての煌びやかな街として知られたという(有名ゆえに清軍が1645年に揚州を侵略し、またしても虐殺を行ったとされる)。
なぜ、こんな内陸の地が国際港として栄えたかといえば、北京と杭州を結ぶ京杭大運河の要所に位置していたからだ。蘇州もそうだが、この時代の大都市の多くは運河沿いにあったのだ。
↓京杭大運河については、過去ログを参照。
そんな揚州の栄華を今に伝える観光地がある。街の中心地にある「痩西湖」だ。妙な名前だが、清代の詩人・汪沆がこの地を訪れ、その美しさから、自らの出身地の杭州の名勝地である西湖にちなみ、「まるで痩せている西湖だ」と言ったことから、この名がついたらしい。僕には褒め言葉には聞こえないのであるが、当の揚州の人たちは西湖と比較されて誉れと思ったのか、そのまま正式名称になってしまった。
↓中国人の西湖への偏愛ぶりは下記をみてね。
さて、湖と名を冠していることから、或いは西湖と比較したためか、僕はてっきり大きな湖だとばかり思っていたが、あえて言おう、痩西湖は湖ではない!
その証拠に地図を見ればはっきりわかる。
地図で見ると日本の城郭(お堀で囲まれたさまが)か湿地帯のよう。では、痩西湖は湖でなければ何かと問われれば、こう答える。痩西湖は水をふんだんに活用した巨大な古典園林なのである。
かつて清の乾隆帝が南行した際に、痩西湖を訪れ、釣り糸を垂れたとされる釣魚台も、古典園林の重要なパーツだ。
↓門洞効果については、こちらを参照!
ということで、痩西湖は巨大な園林だと思って訪れるのが正しい。なお、園内は広大で数々の名所が点在。できればスケジュールに余裕をもって、1日かけて回った方が楽しめると思う。
<DATA>
瘦西湖
交通:揚州駅からバス旅遊専線(旅行専用路線)で痩西湖西門下車、徒歩約5分(340m)
料金:100元
時間:7:30-17:30
<今日の中国語>
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