黄河に架かった初の鉄橋!中山鉄橋が重要な観光地になった秘密を探る!
西安からシルクロードを進み、最初に通る大きな街が蘭州(lán zhōu:ランジョウ)であるが、正直、シルクロードから想起するようなエキゾチックな雰囲気はこの街にはない。日本でも話題の蘭州ラーメンは中国では「蘭州牛肉麺(lán zhōu niú ròu miàn:ランジョウニュウロウミェン)」といって、イスラーム文化の代表のような料理であるが、蘭州のイスラーム文化は中華に完全に取り込まれていて、街の作りは至って中華テイスト。正直、他の地方都市と代わり映えがしない。これは蘭州だけが例外なのではなく、正直、嘉峪関まではどこもこんな感じ。シルクロードっぽい異国情緒を感じることができるのは、敦煌以西だと思う。
さて、ここ蘭州は昔から交通の要塞ではあったが、王朝の首都があったわけでもなく、正直、あまり見るべき場所がない。最大の見所は街を貫く黄河で、老舗の「馬子禄牛肉面(mǎ zǐ lù niú ròu miàn:マーズールーニュウロウミェン)」なんかもこの川の近くにあるから、半日もあれば蘭州の見どころは全て見て回ることができる。
この黄河にかかる橋で、多くの観光客を集めるのが「中山鉄橋(zhōng shān tiě qiáo:ジョンシャンティエチャオ)」だ。ちなみに、黄河は以前、浮橋がデフォルトで、かつてこの橋も浮橋だったという。
度重なる災害により、当時の清朝政府がドイツのテルゲ・ウント・シュレーター商会に鉄橋の設計及び建設を依頼。材料は全てドイツから輸入したというこだわりようで、1908年に着工、翌年1909年に完成している。
完成した当初は蘭州黄河鉄橋という名称で、1942年に中山橋に改称された。中山とはもちろん孫文のことで(孫文の別名は孫中山)、中国には至る所に中山の名称が使われている(代表として上海の中山公園がある)。
この中山鉄橋、行ってみればわかるのであるが、歴史の重みは確かに感じるものの、言ってみれば単なる橋にすぎない。歴史的価値という点でも中山鉄橋は黄河で初めて架かった鉄橋だというだけで、河北省唐山にある滦河大鉄橋の方が建設は古い(1892年に施工)。中国初の鉄橋という訳でもないのだ。にもかかわらず、中山鉄橋には国内から多くの観光客が訪れる。無論、蘭州に観光地がないという面もあるのだろうが、それにしても不思議で仕方がなかったのである。あとで調べてわかったことだが、やっぱり政治的な側面が大きかった。そう、中山鉄橋は抗日戦争の象徴だったのである。
蘭州が抗日戦線の舞台となったのは、当時の共産党の立ち位置にある。当時、共産党軍は長征の末、延安に本拠を構えていたが、戦争に必要な物資はソヴィエトから送られていた。とはいえ、ソヴィエトと国境が近い東北地方は当時満州国が置かれ、そのルートを使用することが不可能。実際、物資はウイグル経由で運ばれていたのである。当時、ウイグルと中国をつなぐ道は甘新(甘粛と新疆)と西蘭(西安と蘭州)の2本で、中山鉄橋をその道をつなぐ重要な交通要衝であった。そこで日本軍は中山鉄橋を破壊すべく幾度も空襲を行ったとされる。
結局、中山鉄橋は空襲で破壊されることはなく、これが不屈の象徴として市民に記憶される経緯になるのであるが、正直、日本軍がどれほど本気で中山鉄橋の破壊に従事したかは不明だ。ご存知の通り、当時、日本と戦っていたのは蒋介石率いる国民党軍であり、共産党軍はその他の勢力のひとつにすぎなかった。実際、本気で取り掛かれば、この鉄橋を破壊することなど、それほど苦労するとは思えない。
が、しかし、事実、この鉄橋は守られ、現政権である共産党軍による抗日戦線のモニュメントとなった。さらに日中戦争終了後、ここ中山鉄橋は共産党軍による蘭州解放作戦の舞台にもなった。1949年、蘭州で国民党軍と激突し、共産党軍はこの中山鉄橋を奪取することで国民党軍を駆逐することになるのである。
この時、勝利した瞬間、中山鉄橋を見下ろす白塔山に共産党の五星紅旗(現在の中国国旗)が翻ったというが、この白塔山には今、ロープウェイで行くことができる。
中山鉄橋は、いわば共産党軍にとって聖地のような場所。ここを訪れる多数の中国人の胸に、そんな思いが到来していることを、この場所を訪れる日本人は知っておく必要があると思う。
<DATA>
中山铁桥
交通:蘭州駅からバス6路で中山橋下車、徒歩約2分(110m)
料金:ロープウェイは往復55元
時間:ロープウェイは7:00-20:00
<今日の中国語>
异国情调(yì guó qíng diào)イーグォチンデャオ:エキゾチック
苏联(sū lián)スーリェン:ソヴィエト。ロシアは俄罗斯(é luó sī:オルォスー)
索道(suǒ dào)スォダオ:ロープウェイ
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