本家長城の1/1000。臨海・江南長城の建造目的を考える
人類最大の建造物にて、唯一宇宙から肉眼で見える建造物でもある万里の長城。ニッチな観光スポットを取り上げる当ブログでも、やはり避けては通れなかった観光地だ(もっとも取り上げたのは、一番端っこだったが)。
ただ、上海周辺を旅行中だったり、住んでいたりする場合、正直、北の方まで行くのが面倒臭い。「あーぁ、身近な場所で長城はないかな?」と思ったら、なんと江南にも長城が存在するのである!
その名も「江南長城(jiāng nán cháng chéng:ジャンナンチャンチェン)」という。場所は浙江省の臨海(lín hǎi:リンハイ)という街で、上海から中国版新幹線「動車組」で約3時間半。なかなか面倒な場所に、江南長城は存在する。
江南長城は、万里の長城と同様、山の稜線に築かれた防御壁である。本家の万里の長城の長さが6259.6kmなのに対し、江南長城は6286m。差不多に感じるが、注意してほしい。単位が違う。つまりは万里の長城の約1/1000。江南長城というより、ミニ長城と称した方が違和感がない。
ただし、規模はミニだが、観光するにはタフだ。東湖という臨海市中心部の湖のすぐそばからアクセスするのだが、最初に目にするのは遥か山の稜線へと長々と続く階段。大半の人はチケット代を払って、階段を登るのを躊躇するはず。さすが臨海というマイナーな街の観光地だけあって、本家・長城のような滑り台的なアトラクションも存在せず、ひたすら登る、歩くだけの観光地となっている。
さて、この江南長城の歴史は東晋にまで遡る。最初に建設されたのは402年というから、東晋の末期。東晋最後の皇帝・安帝の時代で、その安帝はわずか16年後に宋(南北朝の南朝)を開いた劉裕(武帝)に殺されている(東晋の滅亡)。とはいえ、この江南長城は安帝ではなく、当時の郡主だった辛景という人の手によるもの。ちなみに当時の東晋は桓楚により圧迫されていたが、桓楚は他の五胡十六国のような異民族王朝ではないし、当時圧迫されていたのは首都の建康(今の南京)であり、遠く離れた臨海は無縁。江南長城の場合、異民族の防衛という本家・長城の目的とは別の用途で作られたことは間違いない。
では、江南長城の目的はなんだったのだろうか?東晋以降、唐代、北宋代、明代、清代と4期に渡り拡張され、今に至るわけだが、この4期のうち異民族に悩まされたのは、わずか明代のみ。その相手とは倭寇、しかも後期倭寇である(後期倭寇は海賊というより武装海商で、その構成員のほとんどは中国人だったと言われる)。江南長城には倭寇を撃退した戚継光の銅像もあり、倭寇撃退の歴史を殊更クローズアップする演出を行なっているが、成り立ちを考えると倭寇のための防禦施設というには無理がある。
江南長城建設の目的は、地図を眺めていると見えてくる。臨海市の南には霊江という大河が流れている。
浙江省には杭州に銭塘江という海嘯を引き起こすことで有名な大河があるが、そのメカニズムは湾が大きく、すぐに川が細く、くねくね曲がっていることが要因となっているが、霊江も同様に湾が大きく、すぐに川が細くなっている。こうした地形は洪水を引き起こしやすいのだ。
中国の城壁は日本の城のように天守閣を守るためでなく、街全体を取り囲むことを目的とする。江南長城は霊江の洪水から街を守るために築かれ、いざ洪水の際は避難地にもなり、さらに結果として、海から川を遡上する倭寇を防衛する拠点ともなった。そう考えた方がスッキリする。
と、まるで目的は違うが、長城は長城。しかも1日あれば1周できるので、「長城を制覇した!」と言いたい人は、江南長城に行くと良い。
<DATA>
江南长城
交通:臨海駅からバス臨海218路で古城辦事処下車、徒歩11分(810m)
時間:7:00-17:00
料金:65元
<今日の中国語>
差不多(chà bu duō)チャーブドウ:だいたい一緒/ほぼ同じ
楼梯(lóu tī)ロウティー:階段
雕塑(diāo sù)デャオスー:彫刻像
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